1958年1月15日 茨城県稲敷郡桜川村古渡(ふっと)で農家の長男として出生しました(現在の稲敷市)。県南部,土浦市と潮来市との間で,霞ケ浦の西側に位置した地域です。
一帯は,「水郷の早場米」として知られた稲作中心の土地で,「霞ケ浦レンコン」と「江戸崎かぼちゃ」が特産品として有名です。
皆さんに私の人となりを知って頂くために,記憶に残る幼少期から社会人となってからの裁判所での経験等のエピソードを交えてお話して自己紹介とさせていただきたいと思います。
隣家は裕福な農家で,庭先には一角に山水を模した小山と池があり,鯉や金魚が飼われていました。 その池の周りでよく遊んでいた私は,そこから金魚を1匹手ですくい取ってズボンのポケットに入れて家に持ち帰ってしまったことがありました。金魚泥棒です。 井戸から盥に水を汲んで金魚を生かしていると,すぐに母親に見つかってしまいました。 ズボンのポケットに手を当てたまま慌てて門から庭に駆け込んで来る私の不自然な姿を見た母親(物置でむしろを編んでいた)が,私の許に飛んで来たのです。盥の金魚を見つけるなり,「どうしたの。これ。」とすごい形相で言われ,当時何と答えたか覚えていませんが,慌てて隣家に返しに行ったのです。丁寧に謝って,許してもらったのでした。 この時は,ひどく叱責され,後々までことあるごとに諭されたことを今でも覚えています。
当時の動機は記憶にありませんが,夏祭りの夜店で買う金魚はすぐに死んでしまうので,現実に小池で飼われている金魚なら長く飼えると考えたのかもしれません。 勿論,5才の子供に責任は問えませんが,未成年ですから親には監督責任があります。後々まで長く諭されたことの意味が成長してから分かりました。 社会人として裁判所職員の道に進み,長く刑事畑を歩むことになったのもこの時の影響があるのかも知れません。
村の文化祭の出品締め切り1週間前になると,習字・書道の部の作品に意欲のある有志の子どもを集めて課外の特別授業をしてくれた先生がいました。 私たちは一旦帰宅して夕食を済ませた後,午後6時再び学校に集合し,10時頃まで,この先生の許で,出品作の作成の練習を連夜続けました。多い時には,10人を超える子どもが集まったと思います。
文字の線の方向,形,バランス等は勿論,名前の字の細かな点まで,1人1人に対して,朱色の筆で逐一説明を加えつつ添削指導してくれたのです。この先生のおかげで,文化祭には何度か入選させていただきました。
硯で墨を擦っていくと次第に心が落ち着いていく感覚が身に付いたのもこの時の先生の指導があったからかもしれません。 高校時代の芸術の授業でも,男子生徒が極端に少ない「書道」を選択しました。 篆刻もかじり,自身の落款も作ったことがあります。 心が落ち着く王義之,顔真卿,空海などの書が好きで,これらの展示があると今でも博物館などに見に行きます。書道に感心を持たせてもらったこの先生には感謝しています。
愛称は「モダンゴリラ」(容姿が痩せたゴリラようだったから付いた愛称)の私の第2の恩師です。 板書しながらの説明が流れるようで分かりやすく丁寧な先生でした。 特に感激したのは,先生の口癖です。
「いいかい。予習はして来なくてもいい。黒板の説明をよく聞いて,理解するんだよ。」
中学三年の時三角関数で苦手意識をもってしまった私にとっては,高校1年で担任してくれたこの数学の先生が真に救世主でした。
高校数学では次々と新しい概念が出てきます。苦手意識のままでは絶対に付いて行けなかったと思います。この時に俄然数学好きになりました。今でも感謝しています。
「公式は覚えるのではなく,その導き方を理解するんだ。」が口癖の先生でした。
この先生も説明しながら板書していくのが好きな先生で,数学の公式を例に持ち出してその導き出し方を度々解説してくれるのでした。
この時代に,物事の本質を見極めるための流れを学んだような気がしています。 後に社会に出てから役立った本を読むときの心構えもこの先生に教わったことが基本になっているような気がしています。 年齢を重ねた今,特にこの高校時代の2人の先生には感謝しています。
法学部のない学校の経済学部出身者(埼玉大学)である私は,大学時代刑事法分野で履修したのは「刑法」のみでした。そんな私が,裁判所の採用時の面接では,大胆にも,「高裁刑事部を希望します。」と答えたのです。
今考えると,よくそのとおりに採用してくれたものだと思います。
後で様々な法律書籍を読んだ時に分かったのですが,論文や著作物が至る所で引用され,参考文献として挙げられていて,お名前を拝見する機会が多くてびっくりした偉大な先生(裁判官)が,入所したての23才私の事務室のすぐ近くにいたのです。
法律専門の出版社・雑誌社の編集者から原稿依頼の電話や訪問が頻繁な方でした。年中,法務図書館からアメリカやドイツの大学のローレビュー等を借り出して,執務室でパラパラと原書で読まれていた方です。勿論,判決起案の合間にです。
当時裁判官は自分の父親より上の世代の方ばかりでした。私は,職員としての事務処理のため,さほど緊張するでもなくこれらの裁判官と接していましたが,今振り返ると,背筋を冷や汗がさーっと流れる思いがします。
厳粛な公判審理の最終の被告人質問の場面でした。弁護人,検察官,左右の陪席裁判官の質問の後,裁判長の質問の場面のことでした。
・・・・・・・・・・・(質問省略)
裁判長:「やっちゃえばよかったじゃないですか。」
被告人:「・・・・・・」
この裁判長は,司法研修所の刑事教官経験者で,当時裁判所の重要ポストの裁判官でした。
この事件は中止未遂の事件でしたから,まさにこの確認の質問がメインポイントだったのです。被告人の答えを引き出すため,あえての表現だったのですが,失礼ながら,当時の私は,「裁判官がこんな表現で聞いていいのか。」とびっくりしてしまったのです。
今思うと,このようにしか感じられなかった自身が恥ずかしい限りです。
当時,主任書記官という公判部の管理職をしていたため,私の許へ拘置所職員から緊急連絡が入りました。公判出廷のため仮監に来ている被告人が,自身の糞尿を体に擦り付けているというのです。
即座に状況確認と仮監職員への聞き取り調査に赴き,結果を裁判官に報告しました。
その後,開廷が可能か確認するため再び地下に赴いて,片言の英語で本人に法廷への出頭ができるか確認しました。更に,仮監のある地下から法廷階までの被告人の押送方法等の手配を関係部署と協議・調整して,この時は何とか無事に法廷を開くことができました。
この件は,状況が状況だけに,匂い対策,ふき取り等の後始末が大変だったことは,ご想像に難くないところです。 この被告人は,本国から離れた日本での拘禁で不安からこのような反応を起こしてしまったようです。
腰痛が発症すると,数日間安静が必要で,その後歩けるようになると,週に2回ほどサポートのベルトを腰に巻いて通院治療するということが年に2回くらい起こりました。このため仕事にかなりの支障がでました。
このとき通った腰痛専門の整形外科の先生の言葉が印象に残っています。当時私は,数年繰り返す腰痛に悩み,手術を考えるようになっていました。 これに対して,先生は,「どのような手段でも自分で通院できる間は手術は勧められません。10年か15年経てば,症状は固まります。それまでは,対症療法を続ける以外ありません。」と断言されました。
現在,この通りとなっており,この時の先生には大変感謝しています。丁度この時期は,管理職の時期と重なり,自身の描いたとおりの職業上の人生計画を十分に達成できていないとの忸怩たる思いが残っております。
その後,50代半ばには,腰痛の症状もなくなり,仕事もプライベートの活動もある程度順調な時期を迎えました。大学時代の仲間と有志の会を開き,年に数回飲み会や登山の会に参加し,アルプスや関東周辺の高山に出かけていました。
やっとワークライスバランスの取れた生活が遅れるようになったのです。
裁判所職員時代は,最も活躍できる時期に腰痛を抱えてしまったため,自身が描いた社会人としての職業計画が達成できなかったという思いがありました。
人生100年時代の今,この分を補うことは残された人生でも十分可能だと思います。
公務員として勤めた40年間とは違う土俵の上の仕事,すなわち,「事業を起こして現実社会に貢献する」仕事をしていきたいと考えました。
裁判所は動きの激しい現実の経済社会とは異次元の部分もありますから,社会での事業経験の全くない私にとって,起業して生計を立てることがいかに難しく,厳しいことかは想像以上のものがあると思います。しかし,その点も十分踏まえた上での決断です。
就職したての頃に描いた自身の職業人生の計画で未達成の部分を補填していくことが可能な時代となった今,依頼者と役所との懸け橋となる仕事をしていくことに賭けたのです。
そしてその仕事の内容は,裁判所時代に担当した公判・和解調書等の作成,組織通達改正の経験を活かせるものをと考えました。それで,行政書士事務所の開業を決意したのです。
皆様に信頼して頂いて,安心・安定した法サービスを提供することを常に心がけ,自己研鑽を重ねて業務に精励して参ります。
何卒,ご愛顧,お引立ての程よろしくお願い申し上げます。